文化・芸術

山の寺遥拝所

碇から奥地集落を経て神上(こうのうえ)に通じる道筋の峠に祀られている山の寺遥拝所、「山の寺大権現社」はもともとこの碇の地にあったらしいが、今は上山神社の一座として、神上に祀られている。
昔はこの峠から上山神社が見渡せたそうで、まさに碇の人はここから、2キロ程離れて引っ越していった山の寺権現さまをここから伏し拝んだのだろう。碇ではこの地を「伏し拝み」と呼んで、山の神とともに毎年お祭りを行っている。
ここは境内の雰囲気や佇まいが、松が枯れてしまった以外は子供の頃とまったく変わっていないところである。
ヤマモモの木もあって、季節になるとよく甘酸っぱいヤマモモに実を採りにきたものである。
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熊野古道松本峠(まつもととうげ)

仕事の帰りに松本峠の木本(きのもと)側から登り、七里御浜を見下ろした。
夕暮れ真近でうっすらと夕焼けが見え、なかなかの眺めだった。
松本峠は「熊野古道伊勢路」の中では、馬越峠(まごせとうげ)、ツヅラト峠に続いて3番目に来訪者の多いところらしい。
峠の東屋から眺める七里御浜が人気スポットのようだが、私の一押しは何と言っても大泊側から峠まで続く分厚い石畳道である。
急峻なところの峠越えの道づくりに、先人はおびただしい石を周辺などから運んできて一つひとつ積み上げたのであろう。石の量が半端じゃないことがわかる。重機のない昔、どうやって動かし、運んだのだろうとびっくりするような大きな石や石橋がある。

私も父親や伯父さんが石垣を積んでいるのを子供のころから見てきた。石の形状を見ながら一つひとつ積んではガタツキがないか石を揺らしてみて、ガタツキの原因である凹凸を金槌で少しずつ砕きながら積んでいく。体力も必要だが非常に根気のいる作業である。
そういった人間の知恵を垣間見ながら石畳を踏みしめて登るのもまた違った熊野古道を楽しめるような気がする。
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伏拝(ふしおがみ)のこと

碇と奥地の間の山頂にあるこの地は『山寺権現伏拝』と、碇の住人は単に「伏拝」と呼び、ここでは、「山の神」と「山の寺権現の遙拝所」を祀っている。
いつも境内などの掃除を行い、注連縄を飾って新年をお迎えしている。
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ここには立派な3本足の湯たて釜があり、おそらく昔はお祭りの時に神事を行うべく、これでお湯を沸かしていたと考えられる。

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昔、この碇の山寺権現のお祭りは正月の21日で、青年たちが獅子舞いと剣舞を舞っていたらしい、ぜひ再現したいものだ。
そのためには、神上の「上山神社の山寺権現社」やその別当寺であった「嶺泉寺」の歴史をひも解く必要がある。

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立派な石垣と言えば・・

亀の甲羅のような形の石積みといえば、熊野市木本町の旧奥川家;現 紀南ツアーデザインセンターの正面の石垣である。
一つひとつの石の正確な整形といい、少しの狂いもなく積まれていて、相当の高い技術を持った石工の仕事と思う。
碇の中畑家の隠居の石垣とは違い、背丈より高く積まれている。
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一見の価値あり!石垣

碇・中畑家の隠居の屋敷にある石垣・・
精巧に石を一つひとつ亀の甲に形づくって、石と石との隙間はまったくなく草1本生えない
まさにプロの仕事。
93歳の伯父さんの話では、石一つあたり1日がかりで造ったと聞いているとのこと。
屋敷側は、まーるくふくらみを持たせ、外は1枚の板のように真っ直ぐ斬ったように積まれている。
  屋敷側(内側) Img_4512

 

 

  外側Img_4513_2

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征夷大将軍 坂上田村麻呂公

今日は土山(滋賀県)へ出かけた。マラソンへ出場するためだ。いつもの事ながら土山を走ると沿道からの応援により非常にたくさんの元気をもらう。 コース沿いの後半には家の軒先にあったかいお茶やバナナ、蒸しパン、おにぎりなどたくさんのおもてなしを用意してランナーのサポートをしてくれる。
田んぼの中のコース沿いまで運んできて、お菓子や飲物、サロンパススプレーまで用意して待っててくれる。有り難い事である。おかげで無事完走することができた。

走り終えてから、会場近くの田村神社に立寄った。何回かきているが本殿まで足を踏Img_4391み入れたのは初めてのこと。拝殿(工事中)と本殿が離れているのが不思議な感じがした。また禊場というところが境内に人工的に造られていることも。田村神社は征夷大将軍・坂上田村麻呂公を主祭神として、嵯峨天皇および倭姫命(やまとひめのみこと)をお祭りしているとのこと。

将軍 坂上田村麻呂というと、熊野でも田村麻呂公が鬼の岩屋に棲む熊野の海賊多娥丸(たがまる)を征伐し、首を地中に埋め、その上に社殿を建てたのが始まりと伝えられる熊野国総鎮守を名乗る大馬神社がある。
修験者が修行をしていたという清滝は社殿右横から滝の近くまで登っていくことができ、マイナスイオンをしっかり浴びることができる。
最も興味深いのが神社境内に狛犬がいないこと・・狛犬は海岸にあるあの獅子巖(ししいわ)だという。だれが考え出したのか?・・スケールの大きな話である。

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嶺泉寺の寺宝~三種の能面~

神上(こうのうえ)の上山神社には、元々碇に鎮座していた氏神飛鳥神社ならびに山寺権現そして吉田大明神が境内に祀られている。この旧飛鳥神社と山寺権現の二社の別当寺が神上の嶺泉寺(れいせんじ)〈弘治2年(1556)開山〉だったそうだ。
その嶺泉寺の寺宝として、熊野市の指定文化財にも指定されている能面がある。もともとは上山神社の雨乞い神事に使われていたそうで、「十寸髪」は桃山時代の作らしい。

ということは、時代を遡ればこの能面は飛鳥神社か山寺権現で使われていたということ。もしやして、さらに元の碇の雨乞い神事の時に使われていたのかも知れない。

追記:熊野市史には、「昔、この〔碇〕の山寺権現の祭りは正月21日で、青年たちが獅子舞と剣舞を舞っていたと伝わっている。」と書かれている。

次は熊野市の指定看板の説明およびその写真である。
~熊野市指定文化財 有形文化財 彫刻能面 嶺泉寺~
右,十寸髪(ますかみ) 和紙下張の上に彩色されているが彩色彩落、和紙の剥離した部分がある。桃山時代の作。
中,小面(こおもて)    彩色が剥落し、生地木目のみえる部分が多い。江戸時代初期の作。
左,翁(おきな)       彩色は完全に残っているが全体に汚れがあり顎の植毛は大部分脱落し飾り眉も落失している。
 これらの能面は、往時、当地方の農耕地に雨乞神事面として木地師によって導入されたものと考えられる。
小面の裏に「大蔵云々」の墨書銘が読みとれる。
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熊野権現と三山信仰

熊野市史をひも解いていると「民間宗教の諸相」ー「熊野地方の修験道」ー「熊野信仰と熊野修験」のところに『熊野権現と三山信仰』の解説がある。(下記のとおり)
この熊野権現・・という標題で、このちっぽけな集落であるにも関わらず、我が”碇”が最初に登場してくることに、驚きとともにはるか江戸時代あるいはそれ以前の碇はどうであったのか・と興味は尽きない。
 次に出てくる山寺権現や飛鳥社は現在、神上(こうのうえ)の上山神社に祀られている。

 1 熊野権現と三山信仰
 熊野信仰と関係のある神社を並列してみると、まず碇の旧山寺権現(やまのてらごんげん)が挙げられる。筏師によって信仰され、新宮、神倉山と同祭神といわれ、山寺観音とも呼ばれたこの神は、碇から神上へ「飛んで」、そこで祀られるようになったという。資料が欠乏して、この由来は明らかでないが、いくつかの考察をすることができる。まず山寺権現と同様に、碇から神上氏神の飛鳥社も移動されたというところから見ると、両社と碇および神上の開拓者の間に、何らかの関係があったと考えられる。両社の祭礼には必ず碇からの参加すること、あるいは生まれたばかりの男子が山寺権現へお宮参りに連れられて氏子になる慣習なども、同じ意味をもっていると思われる。また山寺権現は、もとは碇にも神上にも山頂に祀られ、女人禁制の地であったから、修験道的な背景があったのではないかと思われる。また碇の山寺権現に対して、川向いの尼寺跡が見られる。この寺には山寺権現と「那智観音」が本尊として安置されていたという。したがってこの尼寺が山寺権現の別当寺であったと考えられる。
 以上の数点は山寺権現と修験道の関係を推定させるので注目に値する。
 そのほか、もっとも古い由来をもつ大馬神社も、大馬権現、八幡宮、大神宮とともに、熊野権現を祭神としている。この神社は修験別当によって管理されて来たし、なお境内の滝は行場として最近まで使用された。
 また、木本の熊野三山(極楽寺、大雲寺、旧熊福庵)や、有馬三山(大馬神社、産田神社、花窟)あるいは遊木の代参講による「三山(みつやま)参り」などは、熊野修験を媒介にして、この土地で定着した熊野信仰になった。

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学者からみた熊野古道 ~心のふるさと~

茂木さん(脳科学者)と佐治さん(宇宙物理学者)の対談(日本まんなか共和国「東紀州2008」文化首都セミナー)は、興味深く示唆に富んだ話であった。忘れてしまわないように記録をしておきたい。

自然に逆らわずに作られた熊野古道・・、そこを歩いていると熊野古道の風の音や石畳には自然の心地よい”ゆらぎ”を感じ、安らぎを感じる。人間はある程度ノイズ・雑音がないと落ち着かない。と佐治さん
脳はゆらいでいることが重要であり、自然である。コンピューターと違って、ノイズ・雑音が入っている方が人間の脳には良く、ひらめきに繋がる。と茂木さん
風の音や石畳の石の上に歩を進めているとすべての熊野古道の雰囲気がわかってくる。(佐治さん)
じっーーと耳を澄ます事が非常に重要であるが、現代人は忘れている。(茂木さん)
自分はこんな人間であると決めつけないでほしい。何歳になっても!(茂木さん)
「今さら」の”さ”を”か”に替えて、何か冒険をしてほしい。(佐治さん)
今の自分が良く知っていること、できることに、全力で取り組んでいけばいい。現代はみんな情報をインプットして処理することはいっぱいやっているが、自分を表現してみること(僕はクオリアのブログを書いているが、日記を書いてもいい)が少なくなっている。脳の活性化にも非常に役立つことであるので、ぜひトライして欲しい。(茂木さん)

お二人の話を聞いていて、あきらめずにいつも前向きに、碇の将来をどう描いていくか、自分は何ができるか・何をすべきか・・について、一生現役で考え続けていきたいと改めて心に誓った。

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内緒の話(伝説)

熊野市史の伝説の部分で、次のようなことが書かれている。夢のような話・・
昔、神戸(こうど)御前という平家の落人が現在の碇の地に流れてきて、この地を開いた。また、碇のどこかに「大判千両、小判千両」が埋まっていると伝えられている。

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山寺権現と上山神社

熊野市史によると
昔、山の寺大権現が伏拝(ふしおがみ)という所に天降りした。その際、頭と胴が別々になって落ちてきたため、尼さんがそれを後ろ前反対につけてしまった。それで山寺さんは前からも後ろからも拝まれており、また、女の人は参ってはいけないという。
また、別の伝承では、おみつという女の人が正月の若水を汲みに行くと、天から山寺様が降ってきてヒシャクにあたり、首が欠け、あわててつけたため後ろ前になってしまったともつたえている。
また、昔、尼寺があり、その寺の一人の尼が川に水を汲みに行った折、天から山の神が降臨してきた。尼は驚いて手にしていた柄杓で山の神の首を欠いてしまい、あわてていたために胴と反対の向になってしまった。尼は直ちに、この山の神を奉持して碇の伏拝へ祀ったとも伝えられている。
なお、その後、山寺権現は神の上の上山神社へいったとも伝えられている。
上山神社
あるとき、現在の上山神社の上あたりを青い霞がかかり、こちらの方へ祀ってくれといわれているようであったので、碇の伏拝に祀っていた山寺さんを上山神社へ祀るようになった。そして、伏拝においてと同様にここでも前後拝む。
以上、面白い伝承があるものだ。頭と胴が別々に落ちてきたとか、前後ろ反対とか・

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神上(こうのうえ)(神川町)の地名

上山神社をみても「碇」と非常に関係が深い「神上」。

熊野市史の地名考によると
神上(こうのうえ)の上はウエの義ではなく、ウヰの義であると、地形的の説明はあるが語源を示してないのである。案ずるに、ウヰはアイヌ語のウスイの中略でないかと思われる。
ウスイは山の中の凹地をいう。
ウスイ→ウイ→ウエと転じたものか。
即ち、神の上は飛鳥神社の神戸であって、その場所は山の凹地であることを示すもののようである。

紀伊続風土記によると次のように紹介されている。
神の上(かうのうへ) 西山郷七色村東南二十余町の所にあり
村内を流るるは神ノ上川にして南方西山郷粉所村と日暮峠を隔てて相對す、當村はもと新宮飛鳥神社の神戸たりしこと寛永記に見ゆ、村名は神の宇井の義にして、神所、神山と等しく皆神戸を稱する名なり、宇井とは其の一區域を爲すの地をいふ、村の一部に川瀬といふ小名あり。

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碇谷の地名

熊野市史の地名考によると

碇は借字で浸潤することを方言でイカル、田がイカルといえば田は水にツカルことである。イカルは怒に基づくか。
水が怒って暴れ水となり、いわゆる鉄砲水となる。

碇郷(いかりご)
怒河(いかりご)である。ゴは河(かは)→カウ→コと大雨になる。暴れ河、鉄砲水の河の義。イカルは暴れるほかに水にツカル義にも用いる。

碇坂(いかりざか)
怒坂であろう。急坂難路で腹立たしくなるからか。碇郷の碇と内容が異なるものか。

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石の由来・・判明

私の実家そばの水田の脇に人や獣の足跡が彫られた石がある。
子どもの頃、お祖母ちゃん(明治24年生まれ)にこれ何?と聞いたけどきちんと教えてもらってなかった。(もっとも石に彫られているいろんな足跡をこれ何?って聞いてただけ・)

熊野市史の上山神社(神川町神上)についての由緒部分に、『続風土記』に「権現御請所といひ伝えて村より一町上の山に畳二帖半敷の島ありと云へり、是始勧請の地にて後今の地に遷座せしなるべし」と『寛永記』の記載を引用しているが、「上山神社の遥拝所」と称する所と思われ、今も小さな祭祠がある。また碇谷集落の中畑家(今は松田家)の裏の水田の傍らに、人や牛の足跡に似た凹みのある石があって、熊野権現御腰掛石といっているが、恐らく上山神社へ新宮から阿須賀神を勧請する際ここを通った道筋であったことを物語る古い伝承であろう。碇谷からは海岸部へ通じる道があり、往時はこの道を通じて林産物を海岸部へ出し、海岸部より米、その他生活物資を搬入した口碑がある。

これが「熊野権現御腰掛石」・・いろんな足跡ばかり 人間、牛、熊、鶏、猪、鹿など10種類はある・誰が彫ったか結構時間をかかったであろう。 私が子どもの頃見たときはもっと何の足跡かはっきり判ったが、今はかなり風化してしまった。<写真>
石の脇から年中、水が湧き出ていた。(今は相当少なくなったが)  Photo_2

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碇の神社等

現在、碇には伏拝(ふしおがみ)と呼んでいる山大神と山寺遙拝所を祀る場所があり、毎年お祭りを行っている。

観音堂(十一面観音とお大師様を祀る(写真)Kannousama_2Odaisisama_2 (もとは東禅寺があった場所で明治8年猪狩神社として建立)も同様に毎年お祭りが行われる。
そのほか、庚申さまが2箇所ある。 

時代を遡って「碇」の地名が、現在の上山神社(熊野市神川町神上(こうのうえ))の由緒に、そして今はなき「東禅寺(尼寺)」は観音堂の敷地横の六十六部供養塔の説明に登場する。
もう少し勉強しないとだめだが、数年前までは伏拝のお祭りをしてからでないと神上の神社(上山神社)のお祭りはできなかったと言われていることなどからみても、碇の地にあった山寺は相当古く由緒あるものだったのではないかと思われる。
上山神社の由緒に書かれている碇谷のナメラダまたはナベラセハチというところは、一体どこだったのか?・・熊野権現御腰掛石とて方二尺ばかりの石はどの石か?早く調べないと落ち着かない。 
又、碇の一番奥まったところには、高さ50m超の大きな山のような岩がある。こういう岩山はお隣の集落の熊野市育生町赤倉に有名な大丹倉があるが、昔の人は神様が宿るところと・・と考えても不思議ではないところである。
 以下に上山神社の由緒の一文をあげる。

一、氏神飛鳥神社
  当地方は、神上粉所(共に神領地の意)などの地名が示すごとく、平安鎌倉の頃から新宮阿須賀神社の神領地であった為 その本社(祭神は熊野十二社権現におなじ)を勧請したもので、飛島荒祭宮ともよばれ、時代は知れないが、最初碇谷のナメラダまたはナベラセハチとよぶ所に鎮座し、そのご(永禄三年との説あれど出典不明)神上の山上を経て字雄阿須賀の地に遷座、当時の境内周四町、三社と拝殿あり、山中としてはめずらしい大社であった。明治五年村社に列し同四十年の合祀で現在の地に遷座、上山神社の一座となった。いま碇合に熊野権現御腰掛石とて方二尺ばかりの石あり、中学校うしろの山腹に権現島また熊野権現御鞋脱所とて畳二帖敷ばかりの岩あり、中学校玄関前大岩のあった所に神社のあったことは皆よく知るところである    ー省略ー

二、山寺権現社
 氏神と同時に、最初碇谷に勧請されたが、そのご今の地に遷座、境内六十五間に五十五間本社六尺四方、拝殿、鳥居あり、明治四十年の合祀で上山神社の一座となった。昔は神仏混合で、観音が本地仏であったため山寺権現とよばれ、明治初年までは山上女人結界で申の時(午后四時―五時)をすぎると参詣ができなかった。新宮神倉さんのようなものだったという。  -省略ー

 二つの神さまともに、碇が最初のようである。平安鎌倉の頃から新宮阿須賀神社の神領地であった。阿須賀神社から勧請して飛島荒祭宮と呼んでいた。
 碇から発した川は、七色峡を合流、北山川を経て、熊野川へ繋がり、熊野灘に注ぐ、熊野川(新宮川)河口の蓬莱山の麓に阿須賀神社がある。蓬莱山の麓から弥生式時代の竪穴住居址跡・祭祀遺跡などが発見されている。

 こんな小さなかつ奥まった集落「碇」の歴史は想像以上に古いようだ。平安時代・既にこの碇の地に人が住んでいたのだろうか。にわかには信じられないがその可能性は皆無ではない。

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